柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

悲しきワナビ

文藝評論家の書いたものの中に「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」と云う一節がある。これはおそらく、氏が敬愛する批評家・江藤淳の「太宰治のことはあまり知らないが、二流の作家だ」と云うレトリックを模したものであろう。

高橋源一郎氏による某文藝評論家論の中には、氏が「指向」を「嗜好」と誤って表記していることをして、「「嗜好」の方が画数が多いので使っているみたいだ」と指摘する箇所があるが、これはまったくそのとおりで、氏の文章スタイルの特徴は、何にもまして「文学者っぽく」なることを第一に置いていることが挙げられる。

しかるに氏の、「LGBT」について知る気もないし知るつもりもないと云う態度には、小林秀雄江藤淳の断定的な批評スタイルへの憧れ以上のものはなく、そのように言い放つ氏の口吻には、小林や江藤の口真似をすることで、恰も彼らと同じ視線に立ったと錯覚し錯覚しようとする、悲しき「文学青年=ワナビ」の姿が重なる。

かわいそうな人なのだ。ほんと。

ピンクの塊

燃える瞳に魔法をかければ

キスしたくなる瞳

つくれる可愛いに肩まで浸かって

君は、

引力のない街を歩く

 

「ガラスの靴を拾ってきます」

韻律を跨ぎ、橋をゆく。

 

黒のドレス

覗かせる白い背中に

誰かがつけた紅葉が浮かんだ

 

不様なメトロポリスにひとり。

火遊びのさなか、

ふと君は

いつかの理科室を思い出している

 

もう百年も

自分が上塗られ続けるのを

糸の上から観察している

 

 

追記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだら負けか

殺はリスキーである。単にそれは、自殺に失敗してひどい後遺症に悩まされると云った結果を想定してのことではなく、死んだ後のことを指して俺はリスキーだと言っているのである。

当然ながら、死んだ人の証言などこの世にはひとつも存在しない。だから、死んだのちに生きていた頃の数百倍の苦悩が待ち受けていないとも限らないのである。データのとりようがないのだから、それは死ぬまで判らない。

で、どうも最近、松本人志の発言が炎上しているらしい。自殺した人を指して「死んだら負け」とかなんとか言ったらしい。で、賛否分かれている、と。否定派の意見としては、死者への配慮が足りないとか、あるいは、苦しんでいる人に対して逃げると云う選択肢を否定する態度であるとか、大体はそんな感じらしい。しかるに、なぜ「死んだら負け」が、逃げると云うことを否定することに繋がるのか、よく判らない。別にこの世で逃げる方法などいくらでもあるではないか。

いや、おそらくは、「死ぬ=この世から逃げる」、「負け=ダメ」と云うロジックによるものであろうことはなんとなく判る。しかし現実問題、死ぬことが逃げ切ることとイコールであるかと云うのはまったく証明が出来ないのである。そして、「苦しかったら逃げて好いのだ」と主張するのであれば、徹底的に逃げ切ることを推進せねば意味がない。苦しんでいる人に対して「辛いなら自殺しても良いよ」と言葉をかけたければ、「自殺=楽になる」と云うことを証明してからでないと意味がないし無責任である。だが、そんなこと証明出来るわけがないのだ。

単純に、自殺はリスキーなのである。