柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

とにかくゆっくり書く

文と小説を書くだけの暮らしをしているので、何か別のことを書けと言われても困る。しかるに今日は、昨日に引続き添削について書く。

むろん、これを推敲と云う言葉で言い換えることは出来ない。なんとなれば、俺は推敲と云うことを全くしないからである。今度の添削も、誤字を訂正したにすぎず……、いや、俺でなくとも、五年も前に書いたものに新たな命を吹き込むことなんぞ誰にも出来やしないだろう。ある程度時間が経つと、その作品を書いていた頃の集中した状態に戻るのは不可能なのだ。

閑話休題。そんな俺であるが、文章を書き始めた頃から推敲をしなかったわけではない。文法も何も知らなかった頃は、原稿用紙を一枚ほど書くと、部屋で一人、大きな声でそれを読み上げて確認していた。で、流れの変なところを耳で聞いて随時赤を入れていくわけだが、これはいつからか全くやらなくなった。何度か読んでいるうちに、音読の方が上手くなって、何が良いのか、何が悪いのか、判らなくなってしまうのだ。さらに、外で書き物をすることが多くなり、物理的に出来なくなったと云うこともある。

しかし、そうでなくても、俺は推敲をやめたと思う。と云うのも、直してよくなったためしがないからである。誰かに読んでもらっても、「この文、いいね」と言われるのは、必死に音律を調節したところではなく、どこかで拾ってきた、まっさらな一文なのだ。

と云うのは、つまり、文章と云うのは、一文を書きつけた瞬間にすべて決まってしまうものなのである。一文目は二文目を呼び、二文目は三文目を呼ぶ……そう言った促進力をハナから有しているのだ。その運動の中には既に物語が体を横たえている。それを、作者の都合でアレコレするのは、その運動にとり不都合に働くだろう。

……そう言っても、人間は忘れる生き物なので、最低限読み直して矛盾したところくらいは直した方が好いと思うけど。

リライト

 

誰かの視線

誰かの視線

 

 

き直す、と云うほどのことではないが、新作長編の出版に向けて既刊の添削を行った。具体的には『誰かの視線』と『病まない病』である。前者は、去年に書かれたものであるため、それほど読み返すのが苦痛ではなかったが、後者は、どれも古く、特に表題作など五年も昔に書かれたものであり、一行読むと顔が火照り、二行読むとのたうちまわり……、と云う具合で、軽い拷問であった。

とは言え、どちらもそれほどよく読まれているものではない。しかしまったく読まれていないわけではなく、毎日、誰かしらが目を通してくれているのは確かなことで、そうすると、俺は毎日、どこの誰とも判らぬ人に恥をさらしているのに等しく、いや、死にたくなりましたよ。

そう言っても、言語の発達にはゴシップが大きく関係しているのは自明であり、必然、文章を読む楽しみには他人の恥部を覗く喜びも含まれている。ならば、俺も一介の小説家としてそう恥ずかしがることなく、もう少し読者にサービスしても好いくらいである。

 

追記

文章読本其の弐

書かれた小説よりも小説家本人の方が面白いと云うことがある。俺も、何人かそんな人を知っている。皆一様にバカなのであるが、そのバカさを以てその作品の魅力に貢献している風でもあり、それを「才能」と言っても好いのだけれど、そうすると、その人たちの「才能」がでかすぎて「小説」と云う枠に収まりきらなかったと云う図式が出来てしまう。

が、そんなわけがない。

なんとなれば、なんだって吸収して面白くするのが「小説」の懐の大きいところではないか。

だから、要するに技術不足なのである。あるいは、「照れ」不足なのである。このとき、「照れ」は明確に「技術」のけはいを帯びている。なんにしても、「技術」が生まれる端緒には必ず「照れ」があるもので、「照れ」のないところにはいかなる工夫も入り込む余地がない。「照れ」不足は努力不足である。

我々は、だから、小説家が面白く感じて書いた小説ほど読者は不満を感じて読むと云うことを肝に命じて筆を取らねばならないンだな。