柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

富山

山県は、一年を通して曇り空が広がる。こう云った土地は、仏教が流行りやすい。事実、高岡市の中心部には、高岡大仏と云う、非常に端正な顔立の大仏が、デンと腰を下ろしている。しかるにこれは、観光客を呼び込むには至っていないようである。

又、富山市にしても、「世界一美しいスタバ」はなるほどすげぇものだが、街全体を見渡したとき、いかにも空白が多く、これと云った魅力に乏しい感じがする。

しかし。

しかし、だ。

都市社会学的な目を以てこの町を見れば、世界にも稀な、殆ど模範的と言っても好いくらい見事な都市であるらしい。なんと言っても、あの世界銀行が、「これからの都市のありかた」の見本として富山に注目していると云うのだから、地元民としては、大丈夫か世界銀行、と思うが、まァ大丈夫なのだろう。

それでは、「これからの都市のありかた」とは何か。キーワードとなるのは、「コンパクトシティ」である。

つまり、世界の都市と云うのは、多かれ少なかれ高齢化している。そうしたとき、広範囲に渡ってさまざまなお店や施設が立ち並ぶ従来の大都市は、老人市民の足の問題にぶちあたって、むしろネックとなる。

その点、富山駅前には、百貨店や広場が密集しており、町中を行き来する路面電車が走っている。商店街も充実していて、どこに向かうにしても徒歩十五分圏内でなんでも揃う。そうした、狭い区域で施設を充実させると云うのが、これからの都市の目標であり、「コンパクトシティ」であるらしい。

なるほど、と唸る。そう言われたら、そうかもな、と思う。

しかし。

しかし、だ。

もう少し視野を広げてみたらどうだろう。つまり、近い将来、AIの時代がやって来る。いや、それより少し前には、車の自動運転と云うのが一般化するだろう。そうしたとき、かならずしも都市はコンパクト化する必要はないのではないかと思ったり思わなかったり、でも富山が誉められることはそうあることではないので、黙っとこうと思ったり思わなかったり……。

 

金沢

 

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

 

 

沢人気質と云うものがある。金沢に来る度、強くそれを感じる。

先ず以て、金沢は都市として洗練されている。駅前には街として必要なものが全て揃っているし、バスに乗って兼六園に向かえば、その道中、品の好い街並みがどこまでも途切れることなくつづく。この清潔感は京都よりも上のものだと思われるし、都市としての利便性は福岡なんぞを思わせる上々のものだ。おまけに食べ物も旨い。だからこそ吉田健一の趣味にかなったのだと思われるが……、どうも地元の人々はあまりこの土地を高くは買っていないようである。一寸見れば判るくらい、彼らにはコンプレックスの影が強くつきまとっているのだ。

先ほど俺は、金沢を説明するにあたって京都と福岡の二大都市を例に挙げた。これらふたつは、押しも押されぬ堂々たる大都市である。金沢は、これらの好いところどりとも言える都市設計の上に成り立っており、且つコンパクトで、ごたごたしていず、端的に言って落ち着いている。しかるにこの落ち着きは、田舎であるが故の落ち着きなのである。「京都のよう」であり、「福岡のよう」でもある……、しかしどこまで行っても田舎、それが金沢なのである。

故に石川県民は、「田舎者」であると云うことに対するコンプレックスが(富山県民や福井県民のそれに比べて)非常に強い。富山、福井の両県から一歩進んだ都市性を持ちながらも、一寸外を見れば、京都があり、大阪があり、甚だしくは東京がある。これは仙台などにも当てはまることなのだが、仙台人からはひしひしと感じられる「村意識」が、金沢人からは微塵も感じられないのである。 彼らから感じられるのは、本物の都会に対する憧れ、そしてその都会の中に混ざり、擬態してやろうと云う強い願望である。いざと言うとき、彼らはこともなげに金沢を捨ててしまうに違いない。

たとえば、金沢市出身の小説家に、泉鏡花がいる。耽美的な作風で知られ、俺も学部時代には心からのめり込んだものであるが、あのハイカラ趣味は、江戸人以上に江戸人ぶりたがる金沢人気質によるものと言える。鏡花に酔狂した三島由紀夫は、エッセイ『小説家の休暇』の中で、太宰治の「田舎者のハイカラ趣味がきらいだ」と書いているが、あにはからんや、太宰のそれは鏡花のそれと質を同じくするものである。但し、本物よりも本物ぶる力(あるいは意地)は、青森県民より石川県民の方が尚強いことは確実に言えるだろう。

月狂四郎『悪人の系譜』について

 

悪人の系譜

悪人の系譜

 

 

狂四郎さんには、最後の無頼派と言った趣がある。(別名義であるが)『入間失格』と云う太宰を模した小説もあるし、「とにかく書きまくる」と云う姿勢はまさしく安吾的と言える。又は、自らを「炎上クソ野郎」と評する如く、些か過激な発言も目立ち、「無頼」のレッテルを進んで請け負っているけはいがする。だがそうした色眼鏡を外して、氏が手掛ける作品に目を転じてみれば、「無頼」と云う言葉はどうにも当たらないようである。ハッキリ繊細と言って好い。

しかるに、作者の「ヒール」的芸風と、見かけの荒っぽい文体に騙されそうになるが、本作『悪人の系譜』は、まさに繊細の極致とも言える、真性の技巧派の作品である。

既に氏が自身のブログで公開している『悪人の系譜』ノートを見ても判る通り、登場人物たちの相関は如何にもややこしく、右に曲がり左に曲がり……、加えて構成は、二人の視点を交互に提示しながら、過去に跳び、あっちに行き、こっちに行き、すなわち精緻を極め、しかも狂四郎一流の巧みな筆運びの所為で、読者の頭に一切の無用な努力を負わせない仕様である。あまりにも巧みなために、読む側はそれと気づかない内に物語に没頭し、確固たるハードボイルドの世界観に酔狂し、終盤の叙情的な展開に至っては、うっかりホロリとさせられる。まさにエンタメの王道とも言える出来である。少なくとも俺は、あんなにも優しい「別にいいじゃないか」を、小説の中の言葉として他に知らない。

ちなみに俺は、本作を京都発金沢行の電車の中で一気に読んだのだが、あまりにも面白かったため、読了後又最初の頁に戻って、直ぐに「精読」を始めてしまった。