柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

『トイ・ストーリー4』と令和

https://www.eiga-8.com/review/toy-story-4/

る前に上の記事を読んでしまった所為で、同じく『トイ・ストーリー』と同い年である自分が「4」を受け入れられるものか……、めちゃめちゃ心配になり、ことに、七月十五日に見に行くと決めてからの二日間は、全く生きた心地がせず、それは大学院の修了発表までの数日間に味わった心労と同等のものと言っても過言ではなかったあたり、如何に俺が『トイ・ストーリー』シリーズを血とし肉として来たかが好く判った。

結論から言えば、『トイ・ストーリー4』は傑作である。絶対に「今」見るべき映画であると、胸を張って言える。この時代の流れにあって、むしろ「今」しか見る価値がないと言っても良いかもしれない。「時代」とはつまり、「令和」である。

思えば、『トイ・ストーリー』シリーズは実に好く「平成」と「寝た」作品であった。

「平成」。

「平らに成る」と書いて、それ以上の指針があるとも思えぬその元号は、シンプルであるが故に頑固なほどに強固であり、国民は皆、「平らに成る」ことの必要性と重要性を疑ってみることをしなかった。しかるにこの三十年間、現実はどうであれ、「一億総中流」がある種のリアルとして我々の目の前に屹立し、甘美な、理想的な在り方として受容されつづけたことは疑いようがないだろう。

トイ・ストーリー』シリーズも又、この価値観と倫理観の上に構築された物語であった。それはつまり、「帰る場所=中流」があり、そこに「帰る」ことが「良い」ことであるとする価値観であり、倫理観である。その限りに於いておもちゃたちにとってアンディの部屋は「帰る場所」でありつづけた。ありつづけられた。この強固さが、「1~3」の完成度の由来するところであり、物語の「美しさ」の担保するところであった。

対して、「4」は明らかに「令和」の上に成り立っている。

「令」には、「強いる」とか「命じる」と云う意味もあるが、漢字の成り立ちから見ると、むしろ「集まる」と云った意味合いが大きい。

集まり、和となる。或いは、意味そのままに、「和であることを強いる」……これは、多様性の肯定である。あれもあって、これもあって良い。その中にあって「一億総中流」は綺麗事ですらなく、「個」を殺す暴力だと言えるだろう。そう思えるほどに、「平成」的価値観は単なるファンタジーであったと、「令和」に生きる我々は知っているのだ。最早我々は、「3」に戻ることが出来ないのである。

思えば、「一億総中流」は、「国民」と云うパブリックイメージの押し付けであった。しかるに、『トイ・ストーリー』シリーズに於ける「お前は、おもちゃなんだよ」と云う台詞の絶対性は、「中流=国民」の絶対性に類似する。「おもちゃ」であることが、或いは「中流」であることが美しいのだから、そこを目指し、そこに「帰る」限りに於いて、それらは全く「正しい」ことであったのだ。

だが、「個」を殺して作り上げる「和」は、本当に「和」と言えるのであろうか。「個」が充全に「個」であることこそが、「和」を成すことの最低条件なのではないか。再三言うように、「令和」を生きる我々は、「平成」の嘘に気づいているのである。

なるほど、ウッディは「おもちゃ」である。だが、それ以上に、明確に「自分」なのである。この「自分」と、それが発する「内なる声」は、「おもちゃ=コミュニティ」には収斂され難い要素である。明らかに存在する「自分」が「おもちゃ=コミュニティ」で説明出来ない時、ウッディは「おもちゃ」であることの絶対性を失い、つまりは「自分」なのだと気づく。そして、「自分」が他ならぬ「世界」のすべてなのだと、気づく。「4」のラストに於けるウッディの選択を「らしくない」と感じるとすれば、それはあなたが「平成」的なファンタジーの中に耽溺しつづけていることの証左に他ならないのである。

「令和」の煽りを受けて、憑き物でも落ちたように「自分」を発見した人は多いと思う。そんな人は、「ウッディは私だ」と叫ぶのではないだろうか。……

 

 

さて、突然ではあるが、本ブログ『柚葉通言』は今回で最終回です。これまで読んでくださった方、或いはこれから読んでくださる方、全ての「個」である他ならぬ「あなた」に、あらんかぎりの感謝を捧げます。

『岡本尊文とその時代』について

http://www..com/ https://hametuha.com/series/岡本尊文とその時代/

 

載形式でちょこちょこと発表し始めて二ヶ月が経った。反響は皆無である。まだ読んでいる人がいるとも思えない。何かこう、人類が滅んだ後、地球に一人(一体?)残ったロボットが、任ぜられた任務の報告のために主人にメッセージを送り続けるような、そんな気持になる。

……いや、これは違うな。

ロボットは主人の存在を信じている。対して俺は読者の存在を信じていない。俺が信じているのは、締切の存在だけである。

つまり、読者は存在せずとも、水曜日と土曜日は必ずやってくる。これは俺を縛るルールとして絶対なのである。

ルールは人を甘えに誘う。それを意識し厳守する限りに於いて他のことを考えないで済むからだ。じっさいのところ、俺は小説を書いていない。書いていないと云うのは新たに書いていないと云うことであり、『岡本尊文』にしても、これまでに書いてきた物を適当に直して初出としているだけなのである。

本当は、新しい小説を書かなくてはならない。そう云った苦悩が俺にもないわけではないのだ。しかし、何かこう、まァ、書かなくても良いのではないかな、と云う気もしているのだ。流れる時間に流されるのも、それはそれで良いじゃないかと思ってもいるのだ。ともすればそれは、「小説」と云うものに飽きているのかも知れない。飽きっぽいのだ。何か、熱中出来ればね。

しかるに、熱中は良いものだと思う。即ちそれは、ストーリーに嵌まると云うことであるが、ツイッターのフォロワーの方の中にも、政権批判を趣味としてらっしゃる人がいて、良くもまァ、それだけストーリーに嵌まれるな、と感心する。俺は、世界や日本がどうなろうと知ったことではないし、毎月払っている税金にしても、ハナから無いものとして認識しているので、あとはどう使われようが……、たとえば核兵器を作ろうと、ヤクザの資金源になろうと、知ったことではないのだ。所詮は紙切れである。尻を拭いてくれても構わない。

何か面白いことないかね。