柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

破滅派になりました。

破滅派で小説の連載を始めました。毎週日曜日と水曜日に投稿します。

岡本尊文とその時代 | 作品集 | 破滅派|オンライン文芸誌

 

で、その内容。

存命の小説家・岡本尊文の評伝に着手した都内大学勤務の文芸批評家「私」。執筆を進めるなかで、尊文本人からの介入を疑い始め、やがていかがわしい宗教団体に突き当たる。「陰謀論」、「引き寄せの法則」、「自意識」、「ゴーストライター」……これらの符号が「文学」の名のもとに収斂し、パラノイアが支配するとき、新たな時代が幕を開ける!

気になったら読んでみてね。

伊藤なむあひさんへの妄想

 

おりーりー鳥は実在します? (隙間社電書)

おりーりー鳥は実在します? (隙間社電書)

 

 

藤なむあひさんの新作、『おりーりー鳥は実在します?』を読んだ。「書くことについて書く」と云う小説に見せかけた、まっさらな恋愛小説であった。だから、伊藤さんはやはり石川淳の系譜に連なる人なのだろうと思う。そうして見ると、この作品は、石川の「佳人」に、実に、実に、よく似ていることが判る。

ところがだ、いざ僕のよく知るそれらを描こうと思いペン(正確には黒いクレヨン。ここではボールペンやシャープペン、鉛筆と言った凶器になる可能性の物は使用禁止になっているのだ)を手にその白い紙と対峙すると、どうだろう! 頭の中にあったイメージは頭から腕、腕から手、手から指にまでは行くがどうしても紙にまでは届かないのだ!   

頭の中のそれを僕が絵で描き表せないと脳がわかっていたのかもしれないし、単に絵を描くのが小学四年生で描いた消防車の絵で銀賞を獲ったとき以来だったからかもしれない。とにかく僕は絵を描こうと思うと、途端に何も描けなくなってしまうことが分かった。   

そこで閃いた。彼女への手紙。そうだ、僕は彼女への手紙を書くためにあのクソッタレな店長の元、あのクソッタレなコンビニで働いていたんじゃないか。僕が書くべきなのは文字なのだ。彼女への手紙への練習として。己の欲望のため。

伊藤なむあひ『おりーりー鳥は実在します?』

対して、「佳人」。

わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれそうになっているからだと思われもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいっている証拠かも知れないし、あるいは単に事物を正確にあらわそうとする努力をよくしえないほど懶惰なのだということかも知れない。まったくそのとき坂の上に立ったわたしというものは、いかにも頼みがいのなさそうなでくのぼうの恰好で、ふらふらと風に吹き飛ばされながら斜面をずり落ちて行った。

石川淳「佳人」

語り手の「書くこと」へのためらいの由来するところが、自意識への抵抗であり、その中枢に屹立しているのが、実のところ、ある女性への恋慕の念であることまで、この二作はまったく一致する。文体の肌触りも、ポップであるか、古典的であるか、の違いにとどまる。文構造まで瓜二つである。順番的に言って、伊藤さんの筆が石川の筆をなぞっていると云うことになりそうだが……。

思えば石川は、日本で最初に「ポストモダン」の符号を冠せられた作家であった。鴎外以来とも言える該博と威厳(おっかなさ)で、人は決してそうとは言えなかったが、氏の文章は明らかに空虚の上に成り立ったものであった。石川がその空虚さに気づいていたかどうかと云うのは、今となってはどちらとも言えない。気づいていたとすれば、初めて筆をとったときから気づいていたであろうし、気づいていなかったとすれば、『荒魂』を書いて、『狂風記』を書いたときにも、決して気づくことはなかっただろう。しかるに、あくまで俺の私見で言えば、氏は裸の王様のけはいがあった。

対して伊藤さんは、その空虚さを進んで受け入れていると見える。いわゆる、「そこから始めるしかない」と云うやつだ。そして、その結論を出したのは、随分と早い段階だったと予想せられる。少なくとも、「白雪姫前夜」の時点では既にそうした意識の元で書かれているのが判る。

だがそれは、結論ありきの結論だったのではないか。つまり、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』と云う「先行研究」の結果に倣う、と云うような。

ゆえに、これまでの伊藤さんの創作活動はどこまで行っても「後追い」だったと思う。氏の小説から受ける「感動」は、源ちゃんのエピゴーネンだと言えば言ってしまえる領域内のものであり、そこからの脱却こそが、読者が伊藤さんに期待するところであった。

そして本作に至って、伊藤さんは先祖帰りを行った。つまり、高橋が心酔するところの石川淳の意識に直接アクセスすることで、近現代文学の潮流にまで遡ってみせたわけだ。

この過程を踏んだ伊藤さんが次に小説を書く際は、(如何にも陳腐な言い方をすれば)、「生まれ変わる」と云うことになろう。高橋の異母兄弟にとどまるか、あるいはまったく違う花を咲かせるか……、小説家・伊藤なむあひにとって最も大きなターニングポイントはもうすぐそこまで来ている。

ヒットエンドランテクストレビュー#3

回目。りう『ハッピーハッピーバースデー』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054888291494)。お誕生日ドッキリネタである。主人公がアルバイト終わりに妹の誕生日プレゼントを選び、その会計をしているとき、ふと携帯を確認すると五件の不在着信が入っていることに気づく。まァ普通のことである。俺だって、四件くらい入っていることはよくある。だからこの時点で何にも興味を引かれないわけであるが、主人公は、そのことにものっすごい衝撃を受けるので、読者はテクストとの間に非常な温度差を感じ、あ、この小説はどうでも好いやつだな、となる。一応最後まで読んだが、特に何も思わなかった。ただ、「あァ、今俺はウェブ小説を読んでるんだな」と云う感動はあったようななかったような……。やっぱなかったな。