柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

憂いの森

 

病まない病

病まない病

 

 

 

まえがき

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憂いの森

 思い出せることは、何もないよ。昨日の晩に何を食ったかさえ、憶えていない。白身の魚だった気がするけれど……、どうだろう。しかしまァ、谷村に言わせれば、何を食べたか思い出せないのは、別に問題ないらしいね。食べたか食べてないか判らないのがマズいらしい。

 ……そうすると、私は自分が食べた気になっているだけかもしれない。だが、このとおり、私には妻がいるんだ、多分、夕飯を作ってくれたハズだよ。尤も、私も若い頃はよく妻を泣かせたクチだからなァ。今になって復讐されて、じつは長らく夕飯を食べさせてもらってないということも、あるかもしれない。そういうことをやる奴とも思えんが、そばにいて、それだけで女のことを判った気になるのはいかにも危険だ。私がキミに言えるのはそのくらいだよ。

 あァ、そうか。伊藤のことだったね。一九六五年だったら、アイツもまだ生きていた。一九六六年に死んだのだったか……。一九六五年に『憂いの森』を書いて、一九六六年に自殺した。アレは事故死みたいなものだけれど、伊藤の奴、自分の方から死に向かって行ったふうのところがあるから、自殺でいいだろう。

 思えば、『憂いの森』一本の作家になってしまったね。『森の憂い』にすればよかったなんて、アイツ、言っていたけれど、『憂いの森』の題名でこれだけ名を残したんだ。けっきょくは変えなくてよかったという結論でいいでしょう。

 私がこのあと死んでも、おそらく一本も後世に残る作品はないだろうから、伊藤の勝ち逃げだ。どうせアイツも、『憂いの森』以上のものはもう書けなかっただろう。

 長く生きて、生活のためにどうしようもないものを書き散らして、作家の格を落とす奴なんて、いくらでもいる。アイツはそうならなかっただけ、幸せだったと思いますよ。そういう意味でアイツは、一葉とか、中島敦に匹敵してしまったと言える。私には、格なんぞいうものが元々なかったから、別にどんなものを書こうと全くかまわなかった。書いた枚数だけ全集の巻数が増えるから、俺の方が伊藤より上だ、なんて思っていたが……、じっさいは、アイツの全集は出ても私の全集は出ない。アイツの伝記は出ても私の伝記は出ない。私は、アイツの伝記の中で、アイツの友人として登場するだけの存在だ。

 今だって、そうだ。キミは私からアイツの話を聞き出したいだけだろう? 

 でもアイツのことは、今までに、ほうぼうで話してしまったから、今さら新しいことなんて何もない。ちかごろは、頭の方もだいぶキテるから、キミの方がアイツのエピソードについては詳しいんじゃないかな。山宿で一緒にアルバイトみたいなことをした話とか、アイツが3階から飛び降りた話とか、ヤクザとおいかけっこした話とか……、まァ若者のやることだからねェ。ああいうセンチメンタルなものを書いた奴だから、ちょっとギャップというか、ゴシップ的な面白みがあるだけだ。つまらんことです。面白いということなら、『憂いの森』が一番面白い。あれは傑作だ。そんなこと、私が言うまでもないが……。

 しかし随分と遠いところまで来たものだ。今でも、まっさらな原稿用紙を目の前にすると、初めて原稿を書き出したときのことを思い出しますよ。

 私の一行目は、「夜が来た。」だった。なんの勝算もなく、そう書きつけたんだ。しかしその原稿は書き終わらなかった。途中で、よしにしてしまった。だから、『憂いの森』を読んだときは、驚くより、騙された感じがしたね。なんといっても、冒頭の一文が同じなんだもの。むろん、私の書き上げることのなかった処女作について、伊藤に話したことなど一度もない。伊藤がそのことを知るはずがない。それはそうなんだよ。しかし、だから余計に、『憂いの森』が素晴らしい作品に見えたんだ。私が書いたかもしれない、なんて思ったんじゃない。生まれてすぐに死んだ子どもを、何十年か経って、街中で見かけたような気持だ……。

 いや、変なことを言ったね。死んだ子どもに似た人間は、つまり自分の若い時分に似た人間だということだ。だからと言って、伊藤が私の若い時分に似ていると主張したいわけではないよ。断じてそれはない。だれが見たって、私と伊藤はちっとも似ちゃいないですよ。

 だが私の記憶の中で、一九六五年のことを思い返すと、伊藤の顔は、いかにもぼやけて、いつのまにか、そこに私の若い顔を見てしまうんだ。あのヤンチャボウズは、もしかしたら伊藤ではなくて、私だったのかもしれないと……、いや、なんでもない。今言ったところは残さないでください。尤も、私の話の中で、残すに足るところなど、どこにもありはしない。そう考えると、人様に読んでいただくに足らない、小説の出来損ないのようなものを、この何十年間か、印刷所にあたら印刷させてしまった。地球の大事な資源を、不当につぶしてしまった感じがする。

 あのとき、アイツじゃなくて私が死んでいたら、どうなっていたものか……、いや、アイツはあれ一本の作家だ。あれ一本の作家だからこそ、輝く。輝いている。だから今の私の発言は、全くつまらんことです。

 さっきから同じことばかり言っているね。しかし、思い出すことは何もないと、はじめに言ったはずだよ。――少し腹が減ったな――あとは、そうだな。キミを喜ばせるために何か言うとしたら、私と妻とアイツの関係について……。