柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

夏目漱石『門』について

 

門 (岩波文庫)

門 (岩波文庫)

 

 

石はずるい小説家である。なんと言っても文章が易しいので、「小説」というものに触れ始めたばかりの者は、「判る!」と思い、直に好きになる。それから暫く経ち、コムズカシイ感じの小説家が書くもの(三島由紀夫でも埴谷雄高でもだれでも、各々自由に項に当てはめてください)も読むようになって、疲れた頭でふと漱石に戻ると、これまた文章が易しいので「判る!」と、頭の靄が吹き飛び、「やっぱり漱石は凄い」となる。まるで手品である。

だが実際のところ、漱石と云うのはそれほど判り易い小説家ではない。と云うのは、「幾つになって読み返しても、その深さに驚く。新しい発見がある」と、漱石ファンが口を揃えて言う、例の紋切り型の賛辞をここで繰り返しているわけではない。単純に、小説としてなんだか判らないものが多いのだ。『三四郎』『それから』『こころ』なんて構成が破綻しているし、今回読み返した『門』にしても、なんだって主人公の宗助が禅寺の門をくぐらねばならないのか、サッパリ意味が判らない。サッパリ判らないながら、今度、読みながら、ふとある光景が頭をよぎった。すなわち、李郢の漢詩『宿虛白堂』である。これは、

秋月斜明虚白堂 

寒蛩喞喞樹蒼蒼 

江風徹曉不得寐

二十五聲秋點長 

 と云う感じで、書き下すと、

秋月斜めに明らかなり 虚白堂

寒蛩喞喞 樹蒼蒼たり

江風暁に徹して 寝ることを得ず

二十五声 秋点長し

 となる(ええい、おおまけだ。俺の訳もつけてあげようじゃないか!)。

沈みかけた秋の月の光が虚白堂に差し込んでくる

 さびしげなこおろぎの声はしきりで、木立は鬱蒼と茂っている

 夜もすがら、川風のために、寝られずいる

 鐘の音を二十五回聞く秋の夜の、長く感じられることよ

大方の意味は判ったのではないか。だが一応解説しておくと……、

 

秋の夜長、ある男が虚白堂に籠った(この虚白堂がどんな寺なのかは知らない。けだし「虚白」と云うくらいだから何もない寺なのだろう)。

男は、何があろうとも悟りを開くまでは絶対に寺の外には出まい、と相当な決意をして門をくぐったのである。

寺の中で一人、男は座禅をした。それから暫くの内は男も無心であった。

しかし、何事も最初だけである。

先ず男は、沈みかけた月の光の差し込んでくる様が気になり始めた。

それから男は、寺の窓から見える、月の光に照らされた木立の鬱蒼たるけしきに魅入った。

こおろぎの声のさびしげな様子に聞き耳を立て、川風の音や二十五回鳴らされる鐘の音に悶々とした。

夜はたとしえもなく長く、悟りは遥か向こうだ。

 

……とまァ、如何にもコミカルな詩である。このコミカルな「読み」が、漱石の『門』を読む際に必要なのではないかと思ったのである。少なくとも漱石は、ある種の喜劇として『門』を書いている気がしてならない。