柚葉通言

考えにくいことを考えるブログ

批評の神様

 

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

 

生日が同じだと云うことで、その名前には並々ならぬ愛着を持っているのだけれど、氏の著書を一冊まるまる読み通せたことが一度もない。小林秀雄の話である。

しかし、よくよく思い出してみると、『本居宣長』上下巻だけは読み通した記憶がある。だが、その内容はなにひとつ思い出せない。読んだと云う記憶が揺曳しているばかりだ。……いや、はっきり言おう。俺は小林の全集を読破している。であるにも関わらず、「読み通せたことが一度もない」とわざわざ嘘をつかねばならぬ雰囲気がこの人にはある。

小林は、批評の神様である。日本に批評の文化を根づかせることに成功した大いなる開拓者であり、吉本隆明蓮實重彦も、この人がいなければあれだけ大きな顔は出来なかったに違いない。神様と云うのは神様であるので、我々人間ふぜいは、そう簡単には近づかせてもらえないものだ。遠くから眺めて、少しずつ距離をつめてゆくより他に法はない。

しかるに、小林の批評の方法を捕まえようとする行為に意味はない。しゃちほこばった文体でこけおどしをかけ、だれも読んでないような本のタイトルをちらつかせながら、「こんなものも読んでないのか」と呆れた顔を覗かせた挙げ句、「けっきょくは俺の母親が一番偉い」と、いい加減な断定を下す小林の態度に、「メロドラマだ」と云う批評を与えることは確かに面白いが、メロドラマである小林当人の面白さの方が圧倒的に上なので、「メロドラマだ」と断じた蓮實よりもメロドラマそのものである小林の方が偉いと云うことになる。氏への如何なる批評も、小林の面白さを補強することにしかならないのである。だから、丸谷才一がどれだけ小林の文章の非論理性をあげつらおうとも、柄谷行人がどれだけ小林の滑稽さを笑おうとも、どうしたって小林は面白いし、偉いのだ。

だから我々人間ふぜいは、その神話を崩すことなんぞかないやしないことを承知の上で、とりあえず、氏への否定的な言葉を並べてみることに興じる。たとえば、坂口安吾が書いた「教祖の文学」だとか、小林が文芸時評を始めることを川端に告げたところ「君のようにものを知らない人がかい?」と皮肉を返されたことだとか、まったく虚しいことだと感じながら、どうにかこうにか小林を人間の側に引き寄せようと画策する。だが、これらの行為は、根本的なところで、小林の顔写真に見とれることとなにも変わりがない。